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【ロシアのプーチン大統領の論文「ロシア人とウクライナ人の歴史的統一について」】

駐日ロシア大使館の記事を転載します。

 

🇯🇵ウラジーミル・プーチン 論文
『ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性』

先頃の『ダイレクト・ライン』でロシアとウクライナとの関係に関する質問に答えた折り、私は、ロシア人とウクライナ人とは一つの民族であり、全体として一つだ、と述べました。この言葉は、目先の状況や現在の政治的状況に促され発したわけではありません。これまでにも何度も述べてきましたし、これは私の確信なのです。ですから、自分の立場を詳細に説明し、今日の状況をどう評価しているのか明らかにする必要があると考えました。

最初にはっきり言っておきますが、歴史的、精神的にひとつの空間に属するロシアとウクライナの間に近年壁が生じたことは、私たち共通の不幸であり悲劇であると、私は捉えています。これは何よりもまず、私たち自身がさまざまな時代に犯した過ちの結果と言えるでしょう。しかし同時に、絶えず私たちの一体性を損おうとしてきた勢力が、意図して取り組んできたものの結果でもあるのです。彼らが用いる方式は、大昔から知られている『分割統治』です。目新しいことは何もありません。国内問題にちょっかいを出したり、人々の間に不和の種を播こうとするのも、すべてはここから始まっています。そしてその最大の目標は、分割し、その後同じ民族内で互いに争わせることなのです。

より良く現在を理解し未来を見据えるためには、歴史を振り返らなければなりません。もちろん、この論文の中で千年以上もの間に起こったすべての出来事を取り上げることはできません。ですからロシアとウクライナの双方で覚えておくべき、転機となった重要な点について、詳細に述べていきたいと思います。

ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は皆、かつてヨーロッパ最大の国家であった古代ルーシの子孫です。ラドガ、ノブゴロド、プスコフからキエフ、チェルニゴフに至る広大な地域で、スラブ族をはじめ諸部族は、(現在古代ロシア語と呼ばれる)一つの言語と経済活動でつながり、リューリク朝の大公の下に統一されていました。ルーシの洗礼後は、皆正教を信仰するようになりました。キエフ大公にしてノブゴロド公であった聖ウラジーミルが行った宗教上の選択は、今日もなお、多くの点で私たちの同族性の源となっています。

キエフ大公の座は、古代ルーシの諸国家の中でも特別の地位を占めるものでした。この慣習は9世紀末から続きました。『原初年代記』は後世に向けて、予言者オレグがキエフについて語った言葉を残しています。「これをルーシすべての都市の母とせん。」

その後、当時の他のヨーロッパ諸国同様、古代ルーシも中央支配の弱体化と分裂とに直面することになりました。同時に、貴族と庶民のどちらもが、ルーシを彼ら共通の土地として、自分たちの故郷として捉えるようになったのです。

バトゥによる壊滅的な侵略後、キエフをはじめ多くの都市は荒廃し、分裂は一層ひどいものとなりました。北東ルーシはジョチ・ウルスに下りましたが、それでも限られた主権は維持していました。南ルーシと西ルーシの土地は、基本的にはリトアニア大公国の一部となりました。ちなみに、注目してほしいのが、歴史文献ではリトアニア大公国リトアニア=ルーシ大公国と呼ばれていたことです。

諸侯や貴族の一族を代表する者は、諸侯から諸侯へと仕える先を変え、互いに敵対もすれば味方にもなり、同盟を結ぶこともありました。クリコヴォの戦いでは、モスクワ大公ドミトリー・イワノヴィッチと共に、ヴォルイニの武将ボブロックやリトアニア大公アルギルダスの息子たち、アンドレイ・ポロツキーとドミトリー・ブリャンスキーが戦いました。一方、ママイ軍と結んだのは、(トヴェル公女の息子)リトアニア大公ヤガイロでした。これらはすべて、私たちが共有する複雑で多元的な歴史のページです。

きわめて重要なのは、ルーシの西部と東部の土地では同じ言語を話していたということです。どちらも正教を信仰し、15世紀半ばまでは統一の教会運営が維持されていました。

歴史発展の新たな段階では、古代ルーシの領土を引き継ぎ統合するチャンスは、リトアニア・ルーシと力を付けたモスクワ・ルーシの双方にありました。しかし歴史は、モスクワが再統一の中心となって国家としての古代ルーシの伝統を受け継ぐことを定めたのです。あアレクサンドル・ネフスキー公の子孫であるモスクワの諸侯たちは、外国のくびきをかなぐり捨て、ルーシの土地を集め始めました。

一方リトアニア大公国は、異なる途を歩みました。14世紀、リトアニアの支配層はカトリックを受け入れたのです。16世紀にはポーランド王国との間でルブリン合同を締結され、『二つの民族(要するに、ポーランドリトアニアの)のジェチュポスポリタ(共和国)』が形成されました。ポーランドカトリック貴族は、ルーシの領土において多大な土地の支配と特権とを享受しました。1595年のブレスト合同によって、西ルーシ正教会の聖職者の一部はローマ法王の権威に従うことになりました。ポーランド化とラテン化が始まり、正教に取って代わるようになったのです。
これに対して16世紀から17世紀にかけて、ドニエプル地方では正教徒住民の解放運動が勢いを増しました。転機となったのは、ヘーチマン(訳注:ウクライナ・コサック頭領の伝統的な称号)ボグダン・フメリニツキーの時代に起こった出来事です。彼の側近たちはポーランド・リトアニア共和国から自治を獲得しようとしたのです。

1649年、『ザポロージャ・コサック』はポーランド・リトアニア共和国の王に対して請願を行い、ロシア正教信者の権利を尊重し、キエフのヴォイヴォダにはロシア人かつギリシャ正教信者を採用して正教会への迫害を止めるよう求めました。しかし、ザポロージャ・コサックの願いは聞き入れられませんでした。

これを受けてボグダン・フメリニツキーはモスクワに上訴、請願はゼムスキー・ソボル(訳注:16世紀半ばから17世紀にかけてロシアで開かれていた封建的身分制議会)で検討されることになりました。1653年10月1日、当時のロシア国家における最高代表機関であったゼムスキー・ソボルは同じ信仰を持つ人々を支持し、その庇護下に置くことを決定したのです。1654年1月、ペレヤースラウ会議(訳注:ウクライナのペレヤースラウにおいて、ボグダン・フメリニツキーが開催したコサックの全国会議)はこれを承認しました。その後、ボグダン・フメリニツキーとモスクワの派遣による大使たちがキエフを含む数十の都市を訪れた際には、各都市の住民はロシアのツァーリに対する宣誓を行いました。ちなみに、ルブリン合同の締結に際しては、このようなことは一切行われていません。

1654年、ボグダン・フメリニツキーはロシアのツァーリ、アレクセイ・ミハイロヴィッチに宛てた書簡で「ザポロージャ・コサックのすべて、ロシア正教世界すべてをツァーリの力強い至高の手に受け入れて下さった」と感謝しています。つまりザポロージャ・コサックは、ポーランド王に対しても、またロシアのツァーリに対しても、自分たちをロシア正教徒と呼び、定義したことになります。

ロシア国家とポーランド・リトアニア共和国との戦争が長引く中で、ボグダン・フメリニツキーの後継者であるヘーチマンの中には、モスクワから『離反』したり、スウェーデンポーランド、トルコに支援を求める者もありました。しかし、繰り返しますが、ロシアとポーランド・リトアニア共和国との戦争は、人民にとっては解放戦争の性格を持っていたのです。戦争は、1667年のアンドルソヴォ条約締結を以て終わり、その最終結果は1686年の永遠平和条約に定められました。キエフ市と、ポルタヴァ、チェルニゴフ地方、ザポロージャなどのドニエプル川左岸の地域は、ロシア国家を構成する一部となり、その住民はロシア正教徒の主流と再度統合しました。そしてこの地方自体が、『小ルーシ(小ロシア)』の名で呼ばれるようになったのです。

当時『ウクライナ』の呼称は、古代ロシア語で『周辺』を意味する『オクライナ』の意味でしばしば使われていました。12世紀の文献では、この言葉はさまざまな国ざかいの地域を指すときに使われています。同様に古い文献によると、『ウクライナ人』という言葉は、もともとは、外部との国境を守る任務についた人々を意味していたということです。

ポーランド・リトアニア共和国の下に残ったドニエプル川右岸では古い秩序が復活し、社会的宗教的抑圧が強化されました。一方、単一国家の庇護の下に入った左岸は、右岸とは逆に活発に発展し始めたのです。多くの人々がドニエプル川右岸から左岸へと移り住みました。彼らは言語と、そしてもちろん信仰とを一つにする人々に、支援を求めてたのです。

スウェーデンとの北方戦争の折りも、小ロシアの住民はどちらの味方になるかで迷うことはありませんでした。マゼッパの反乱を支持したのはごく少数のコサックだけで、自分をロシア人であり正教徒であると認識している人々は、多様な階層に及んでいたのです。

貴族階級に属したコサック上層部の人々は、ロシアの政治、外交、軍事の分野で高い地位を手に入れました。キエフ・モヒーラ・アカデミーの卒業生は、教会で重要な役割を担いました。こうした状況は、独自の国内機構を持った実質的な自治国家組織であるヘーチマン国家の時代も、その後のロシア帝国においても、変わりませんでした。小ロシアの人々はまた、国家機構、文化、学術など多くの点で共通の大国を作り出すとともに、ウラル、シベリア、コーカサス、極東の探査や開発にも参加しました。ちなみにソ連時代、ウクライナ出身の人々は統一国家ソ連の指導部において重要な地位を占めていました。その中には国家の最高ポストを含まれます。共産党員としての生涯がウクライナときわめて密接に関係しているN.フルシチョフとL.ブレジネフが、あわせて約30年間もソ連共産党の最高ポストを占めたことが、何よりの証左でしょう。

18世紀後半、オスマン帝国との戦争後、クリミアと黒海沿岸地域がロシアの構成に加わり『ノヴォロシア』の名で呼ばれるようになりました。この土地にはロシア全土から人々が移住してきました。ポーランド・リトアニア共和国分割の後は、ロシア帝国は古代ルーシの西方の土地を取り戻しましたが、当時オーストリア領にありその後オーストリア=ハンガリー帝国の領土となったガリツィアとザカラパチアは除外されました。

西方のルーシの土地が単一の国家の領土に統合されたのは、政治的外交的決断によるだけではありません。共通の信仰と文化的伝統に基づいて行われたのです。そして改めて指摘したいのが、言語的な近似性です。17世紀初頭、ユニエイト教会の高位聖職者であったヨシフ・ルツキーはローマ教会に「モスコヴィアの住民はポーランド・リトアニア共和国のロシア人を兄弟と呼んでいます。なぜなら、書き言葉が完全に一緒で、話し言葉も多少の違いはあるもののほとんどわからないほどだからです。」と伝えました。その様子を、まるでローマとベルガモの住民のようだ、とルツキーは表現しています。この二つが今日のイタリアの中央と北にある都市であることは、私たち皆がよく知るところです。

もちろん、何世紀にもわたる分割によって、それぞれの国では地域による言語上の特徴である方言が生まれました。文語は、民衆の口語によって豊かになりました。ここで重要な役割を果たしたのが、イワン・コトリャレフスキー、グリゴリー・スコヴォロダー、タラス・シェフチェンコです。彼らの作品は、私たち共通の文学的、文化的遺産です。タラス・シェフチェンコは詩をウクライナ語で、散文は基本的にロシア語で書きました。ニコライ・ゴーゴリはポルタヴァ州出身のロシアの愛国者ですが、ロシア語で書かれた彼の作品は小ロシアの民衆に伝わる表現や民俗的なモチーフにあふれています。こうした遺産を、ロシアとウクライナとの間でどうやったら共有していくことができるでしょうか。また、そのようなことをするのは何のためでしょうか。

ロシア帝国南西部、小ロシアとノヴォロシア、クリミアは、民族、宗教の点で多様な構成を持ちながら発展してきました。この地には、クリミアタタール人、アルメニア人、ギリシャ人、ユダヤ人、カライム人、クリムチャク人、ブルガリア人、ポーランド人、セルビア人、ドイツ人、その他が住んでいました。そしてそのすべてが、自分の信仰と伝統、慣習を守っ
てきました。
理想化するつもりは一切ありません。1863年のヴァルーエフ指令と1872年のエムス令が、ウクライナ語の宗教文献や社会政治文献の出版および海外からの輸入を制限したことは、よく知られています。しかしここで重要になってくるのが、当時の歴史的な状況です。上記の決定がなされた背景には、ポーランで起きた劇的出来事と、『ウクライナ問題』を自分の利益に利用することを願うポーランド国民運動指導者の思惑があったのです。付言しておきますが、芸術作品やウクライナの詩集、民族歌謡の出版は引き続き行われていました。ロシア帝国では、ロシア国民という大きな枠組において大ロシア人、小ロシア人、ベラルーシ人を統合し、小ロシアの文化的アイデンティティーを発展させる取組みが活発に行われていたのです。

この頃、ポーランドのエリートと小ロシアの知識層の一部の間では、ウクライナ国民をロシア国民と分けて捉える考え方が生まれ、強くなってきました。こうした考えには歴史的根拠がなく、あり得もしませんでした。そのためこうした考えを導く際には、ウクライナ人はいかなる点でもスラブ人ではないとか、あるいは逆にウクライナ人こそ本物のスラブ人でロシア人は『モスコヴィヤ人』だからスラブ人ではないとか、さまざまなフィクションを基にしたのです。こうした『仮説』は、ヨーロッパ諸国間の競争のツールとして、政治的目的でさかんに利用されるようになりました。

19世紀末以降、オーストリア=ハンガリー帝国は、ポーランドの国民運動とガリツィアの親モスクワ感情との釣り合いをとろうとして、上記の考えに飛びつきました。第一次世界内戦中、ウィーンはいわゆるウクライナ・シーチ銃兵隊の編成を推進したのです。正教とロシアへの共感を疑われたガリツィア人は苛酷な迫害を受け、タレルホフとテレジーンの強制収容所送りとなりました。

ヨーロッパ帝国の崩壊や旧ロシア帝国の広大な領土で外国の干渉を受けつつ繰り広げられた激しい内戦と関係しつつ、事態はさらに進展していきました。

2月革命後の1917年3月、最高権力機関となることを目的に中央ラーダがキエフで設立されました。1917年11月には、ラーダの第3布令において、ロシアの一部としてウクライナ人民共和国(UPR)を建国することが宣言されました。

1917年12月、ソビエトロシアとドイツおよびその同盟国との間で交渉が行われていたブレスト=リトフスクに、ウクライナ人民共和国の代表が到着しました。1918年1月10日、ウクライナ代表団の団長は、ウクライナの独立を宣言する口上を読み上げました。その後中央ラーダは、第4布令においてウクライナの独立を宣言しました。

宣言された主権は、長くは続きませんでした。わずか数週間後、ラーダ代表団はドイツ・ブロック諸国との単独条約に署名したのです。当時困窮していたドイツとオーストリアハンガリーは、ウクライナのパンと原材料を必要としていました。大規模な供給を確保するため、彼らはウクライナに軍隊と技術要員を送ることで合意を得たのです。実際には、これは占領の口実として利用されることになったのです。

現在、ウクライナを完全なる外国支配に委ねてしまった人々は、1918年に下した同様の判断が当時のウクライナ政権にとってどれほど致命的なものであったのか、思い出してみるのも有益でしょう。占領軍の直接の関与により、中央ラーダは打倒されました。政権についたヘーチマンのP.スコロパドスキーは、ウクライナ人民共和国に代わって実質的にはドイツ保護領であるウクライナ国が成立したことを宣言しました。

1918年11月、ドイツとオーストリアハンガリーでの革命的出来事の後、ドイツ軍隊の支援を失ったスコロパドスキーは方針を転換し「ウクライナは全ロシア連邦の形成を主導することになる」と宣言ました。しかし、まもなく政権はまたもや代わり、いわゆるディレクトーリヤの時代が到来したのです。

1918年秋、ウクライナ国家主義者らは西ウクライナ人民共和国(WUNR)の建国を宣言し、1919年1月にはウクライナ人民共和国との統合を発表しました。1919年7月、ウクライナ軍はポーランド軍に殲滅され、旧西ウクライナ人民共和国の領土はポーランド支配下に置かれました。

1920年4月、(現代ウクライナで『英雄』と呼ばれるひとり)S.ペトリューラはウクライナ人民共和国ディレクトーリヤの名において機密条約を締結し、軍事支援と引き換えにポーランドガリツィアと西ヴォルイニを引き渡しました。1920年5月、ペトリューラ一派はポーランド軍に従いキエフに入城したのですが、それも長くは続きませんでした。同年11月、ポーランドソビエトロシアとの和平後、ペトリューラ軍の残党は、まさにそのポーランドに降伏することになるのです。

ウクライナ人民共和国の例でわかるのは、旧ロシア帝国領域における内戦と動乱の時代に出現したさまざまな準国家組織がいかに不安定であったかということです。国家主義者は独自の独立国家設立を目指し、一方白軍の指導者は不可分なロシアを提唱しました。ボリシェヴィキの支持者により設立された共和国の多くもまた、ロシアから離れることなど考えてもいませんでした、にもかかわらず、ボリシェヴィキ党の指導者たちは、さまざまな理由から、時としてはこうした共和国をソビエトロシアから文字通り追い出すこともあったのです。

こうした中、1918年初頭にはドネツク=クリヴォイ・ローク・ソビエト共和国が建国を宣言し、ソビエトロシアへの加入をモスクワに持ちかけました。答えはノーでした。V.レーニンは共和国トップと会談し、ソビエトウクライナの構成国として活動するよう、彼らに説得を試みました。1918年3月15日、ロシア共産党中央委員会(ボリシェヴィキ)は、ソビエトウクライナ大会に代表(ドネツク盆地代表を含む)を送り『ウクライナ全土にひとつの政府』を設立することを決定しました。ドネツク=クリヴォイ・ローク・ソビエト共和国の領土は、その後は基本的に南東ウクライナ地方を構成することになりました。

1921年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(RSFSR)、ウクライナソビエト社会主義共和国(USSR)、ポーランドとで締結したリガ条約に従い、旧ロシア帝国西部の土地はポーランドに引き渡されました。戦間期ポーランド政府は再定住政策を積極的に推進し、ポーランドが『東部国境地帯』と呼んでいた地域の民族構成を変えることを目指しました。この地域は、現在の西ウクライナ、西ベラルーシリトアニアの一部にあたります。苛酷なポーランド化が推し進められ、現地の文化や伝統は抑圧されました。この後、第二次世界大戦時には、ウクライナナショナリストたちは往時の苛酷なポーランド化政策を口実として、ポーランド人だけでなくユダヤ人、ロシア人住民を対象にしたテロ行動を行ったのでした。

1922年、ウクライナ社会主義共和国が創設者のうちの一国となって、ソビエト社会主義共和国連邦が創設されました。ボリシェヴィキ指導者間で非常に激しい議論が行われた結果、対等な共和国の連合として連合国家を設立するレーニンの計画が実現されたのです。『ソ連の設立に関する宣言』の文言にも、その後の1924年ソ連憲法にも、ソ連から自由に脱退する権利を共和国に認める規定が明記されました。こうした形で、きわめて危険な『緩効性の地雷』が私たちの国の土台には仕掛けられてしまったのです。実際に、ソ連共産党が果たしてきた主要な役割でもあった安全保険メカニズムが消失するやいなや、この地雷は爆発しました。結果的にソ連共産党自体も、内部から崩壊してしまったのです。そして始まったのが『主権国家のパレード』です。1991年12月8日には、独立国家共同体の設立に関するベロヴェーシ合意の署名が行われ、「ソビエト社会主義共和国連邦国際法における主体および地政学的現実としての存在をやめる」と宣言されました。ちなみに、ウクライナは1993年に採択された独立国家共同体憲章について、署名、批准のいずれも行っていません。
1920-30年代、ボリシェヴィキは『コレニザツィヤ(土着化)政策』を積極的に推進しました。これはウクライナソビエト社会主義共和国では『ウクライナ化』政策の名で実施されました。象徴的なのは、かつて中央ラーダ議長を務めたM.グルシェフキーがこの政策の一環としてソビエト当局の同意のもとにソ連に戻り、科学アカデミーのメンバーに選ばれたことです。グルシェフスキーはウクライナ国家主義の唱道者のひとりで、かつてはオーストリア=ハンガリー帝国の支援を受けていた人物でした。

当然『コレニザツィヤ』は、ウクライナの文化、言語、アイデンティティーの発展と強化に大きな役割を果たしました。一方で、ロシアのいわゆる大国ショービニスムと戦うことを装って、自らをウクライナ人と考えない者に対してまでウクライナ化を強要する動きもしばしば見られました。まさにこのソ連の国策が、大ロシア人、小ロシア人、ベラルーシ人から成る大きな意味でのロシア人ではなく、ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人という3つの分立したスラブ人がいる状態を、国家レベルで定着させたのです。

1939年にはかつてポーランドに奪われた土地がソ連に返還され、そのかなりの部分がウクライナソビエト社会主義共和国の一部となりました。ルーマニアに1918年に占領されたベッサラビアの一部と北ブコヴィナは1940年に、また黒海のズメイヌイ島(スネーク島)は1948年に、それぞれウクライナソビエト社会主義共和国の領土となりました。1954年には、ロシア・ソビエト社会主義共和国のクリミア地方がウクライナソビエト社会主義共和国の構成下に入りましたが、これは当時施行されていた法規範に著しく違反する措置でした。

ここで、オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊後チェコスロバキアの一部となったカルパチア・ルテニアの運命について、とくにお話したいと思います。この地域に住んでいた人々の多くは、ルシン人でした。今では思い出されることもあまりありませんが、ソビエト軍によるトランスカルパチアの解放後、この地域の正教徒の住民会議はカルパチア・ルテニアをロシア・ソビエト社会主義共和国の一部とするか、もしくはカルパチア・ルテニア共和国として直接ソ連に加入させるか、そのいずれかが行われることを求めたのです。しかし人々のこの意向は無視され、1945年夏、カルパチア・ウクライナの(『プラウダ』紙の言葉によれば)『いにしえよりの祖国ウクライナ』への再統合を定める歴史的法令が発布されたのです。

こういうわけで、今日のウクライナは完全なるソ連時代の産物なのです。また今日のウクライナの大部分が歴史的ロシアの土地で形成されていることも、私たちは知っていますし覚えています。これについては、17世紀にロシア国家と再統合した時点のウクライナの土地と、ソ連から去った時点のウクライナ社会主義共和国の土地とを比べてみれば、すぐにわかることでしょう。

ボリシェヴィキは、ロシアの人々を社会実験のための無尽蔵の材料と捉えていました。彼らは国民国家を一掃する世界革命を夢見ていたのです。ですから、恣意的に国境を切り取り、領土という『贈り物』をいとも気前よく分け与えたのです。国を切り刻んだボリシェヴィキ指導部を導いていたのは実際のところ何であったのかは、もはや重要ではありません。それぞれの決定のディテールや背景、ロジックに関しては、さまざまな意見があり得るでしょう。しかしひとつだけ明らかなことがあります。それは、ロシアはたしかに強奪された、ということです。

この記事を書くにあたっては、極秘アーカイブなどではなく、よく知られた事実を記載した公開の文書を基にしました。今日のウクライナ指導部と彼らの海外のパトロンたちは、こうした事実については思い出したくないようです。その代わり彼らは国の内外で、さまざまな理由を挙げ、ソ連共産党ソ連、ましてや今日のロシアがまったく関与していない出来事をあげつらって、『ソ連政権による犯罪』を国の内外で非難しています。一方で、ロシアからその歴史的領土を引き裂いたボリシェヴィキの行いは、犯罪行為とみなしてはいないのです。それがなぜかはわかっています。そのせいでロシアが弱体化したのであれば、彼らの悪意は満足するというわけです。

ソ連においては、当然ながら共和国の間の国境については国家の境という認識はなく、単一国家内部の便宜的な境という性質で捉えられていました。そのため、ソ連は連邦としての属性はすべて備えながらも、高度に中央集権化していました。繰り返しになりますが、こうしたことが実現したのは、ソ連共産党が指導的役割を果たしていたからです。ところが1991年、その領土も、そしてさらに重要なことにそこに住んでいた人々も、一夜にして国境の外に放り出されてしまいました。そして今度こそ本当に、歴史的祖国から引き裂かれてしまったのです。

このような場合、なんと言ったらよいのでしょう。万物は流転します。国や社会も例外ではありません。ですからある国民の一部が、さまざまな原因や歴史的状況の影響で発展していく過程で、自分は別の国民だと感じるようになることも、当然あり得るのです。こうした事態にはどう対応したらよいのでしょうか。答えはただひとつ、「敬意を以て!」です。

自分の国を作りたいのなら、どうぞご自由に!ではその際の条件はなんでしょうか。そこで思い出してほしいのが、新生ロシアにおけるもっとも鮮やかな政治家のひとり、初代サンクトペテルブルク市長A.ソブチャクによる評価です。きわめてプロフェッショナルな法律家であり、いかなる決定も合法でなければならないと考えていた彼は、1992年、次の考えを述べました。「ソ連の創設者たる共和国は、1922年条約を自ら無効にした後には、ソ連加入時の国境に戻らなければならない。それ以降に取得した領地は、取得の根拠が無効になった以上、議論、交渉の対象となる。」

要するに、来た時の持ち物を持って出ていって下さい、ということです。このロジックに異を唱えることは難しいでしょう。ひとつだけ付け加えるなら、ボリシェビキによる恣意的な国境の策定はソ連設立以前からすでに始まっていて、人々の意見を無視した領土をめぐる操作は自発的に行われていた点を述べておきたいと思います。

ロシア連邦は、新たな地政学的現実を認識しました。いや、認識しただけでなく、ウクライナが独立国家として成立していくために、多くのことを行ったのです。困難だった1990年代、また2000年代に入っても、私たちはウクライナに対してかなりの支援をしてきました。ウクライナも、彼らなりの『政治的そろばん』をはじいてはいるようですが、1991年から2013年にかけてウクライナが820億ドル以上も予算を節約できたのは、ひとえにガス価格が安かったおかげでした。それなのに現在、ロシア産ガスのヨーロッパへの輸送対価15億ドルを私たちが支払うことに、ウクライナは文字通り『固執』しています。もしかつてのロシアとウクライナの経済関係が維持されていたとしたら、ウクライナにとって数100億ドルにも及ぶプラスの効果があったはずなのです。

ウクライナとロシアは、数十年、いや数世紀にわたって単一の経済システムとして発展してきました。30年前の両国の協力関係は、今日の欧州連合が見たらうらやむほど深いものでした。ウクライナとロシアとは、相互に補完し合う自然な経済パートナーです。その協力によって、競争上の優位性を強化し、両国のポテンシャルを何倍にも増すことができるはずなのです。
かつてのウクライナは、力強いインフラやガス輸送システム、船舶・航空機・ミサイル建造や計器製造といった先端部門、世界的レベルの科学・設計・エンジニアリング関係の学校を有し、そのポテンシャルはきわめて高いものでした。こうした遺産を受け継いで独立を宣言したウクライナの指導者たちは、ウクライナ経済を世界で有数のものにし、国民の生活レベルをヨーロッパでも最高のレベルにまで引き上げることを約束しました。

かつてウクライナの、そしてソ連の誇りであったハイテク産業の巨人たちは、現在はすっかりなりを潜めてしまいました。過去10年間に、機械製品の生産量は42%減少しました。この30年間でほぼ半減した電力生産量指標からは、ウクライナにおける産業空洞化と経済全体の悪化の程度がうかがわれます。まだコロナウィルスパンデミック前の2019年、ウクライナの国民一人あたりのGDPは4,000ドル未満でした。これは、アルバニア共和国モルドヴァ共和国、未承認コソボ以下のレベルです。ウクライナは今や、ヨーロッパ最貧の国となったのです。

その責任は誰にあるのでしょうか。ウクライナ国民でしょうか。いいえ、もちろんちがいます。ウクライナ政府こそが、何世代にもわたる遺産を浪費し、食い潰したのです。ウクライナ国民がいかに勤勉で優秀であるか、私たちは知っているではありませんか。彼らは粘り強く成功を目指し、結果を出していくことのできる人々です。そうした資質や開放性、生来の楽観主義、もてなしの心は、決してなくなってはいません。また、ロシアに対してただ好意的なだけでなく大きな愛情を持って接する数百万というウクライナの人々の心も、今なおそのまま残っています。そしてまたロシアもウクライナに対して、同様の気持ちを以前と変わらず抱いているのです。

両国の経済やビジネス・文化の結びつきを推進し、安全保障の強化、共通の社会・環境問題の解決を目指すため、2014年以前は数百件もの協定や共同プロジェクトが実施されていました。ロシア、ウクライナ両国の国民にもたらした効果を実感したものです。こうしたことこそ大事なのだと、わたしたちは考えていました。だからこそ、私たちはどんなウクライナの指導者たちとも、実りある形の協力を行ってきたのです。

2014年に起こったかの有名なできごとの後でさえ、私はロシア政府に命じ、両国の経済関係の維持・支援のためのコンタクトを何とかとるよう模索させました。しかしこれに応える同様の意向は、ウクライナからは現在にいたるまでありません。にもかかわらず、ロシアは依然としてウクライナの3大貿易相手国のひとつですし、また数10万というウクライナ人がロシアに働きにやって来て、心からの歓迎と支援を以て迎えられています。このような国が、『侵略国』の名で呼ばれているのです。

ソ連が崩壊したとき、ロシアでも、またウクライナでも、両国民の密接な文化的、精神的、経済的な関係は当然維持されていくものと、多くの人々が心の底から信じていました。また、人々が常に感じている「自分たちは一つだ」という感覚に根ざした国民としての一体性についても維持されると、皆信じていました。しかし事態はまったく別の方向に、さいしょはゆっくりと、やがてスピードを増して展開していったのです。

要するに、ウクライナのエリートたちは、国境問題以外は、過去を否定することによって自国の独立性を正当化することを決めたのです。歴史の神話化、書き換えが始まり、ロシアとウクライナを結びつけることはすべて歴史から抹消しようとしました。また、ウクライナロシア帝国あるいはソ連の一部であった時代については、占領された期間として語り、私たち共通の悲劇である1930年代初頭の集団化と飢饉についても、ウクライナ人の大虐殺として描くようになったのです。

過激派やネオナチは、公然とそして厚かましくも、その野望を表明しました。彼らを甘やかした公権力機関とウクライナのオリガルヒは、ウクライナ国民から奪った財産を西側の銀行に保管し、資産を守るためなら祖国をも喜んで売りかねない有様でした。これとの関連で、国家機構の慢性的弱体と、ウクライナが自らすすんで外国の地政学的思惑の人質となった点にも触れなければなりません。

思い出していただきたいのは、2014年よりもかなり前から、米国とEU諸国はウクライナがロシアとの経済協力を縮小、制限するよう、計画的かつ持続的に仕向けてきたという点です。ロシアはウクライナの貿易・経済上の最大の相手国として、ウクライナ、ロシア、EUのフォーマットにおいて新たに生じている問題を話し合うよことを提案しました。しかしこれに対しては何度も「ロシアは何の関りもない。この問題に関与するのはEUウクライナだけだ」と言われました。西側諸国は、ロシアが繰り返し行ってきた対話の呼び掛けを、事実上拒絶したのです。

ウクライナ地政学上の危険なゲームに、一歩一歩、引きずり込まれていきました。このゲームの目的は、ウクライナをヨーロッパとロシアの間の障壁に変え、ロシアへの前進拠点とすることです。必然的に、ウクライナを『非ロシア』と見る概念はもはや成り立たない時期がやって来ました。私たちが決して認めることのできない『反ロシア』の概念が必要とされるようになったのです。

この計画の主は、かつてポーランドオーストリアの思想家たちが作り出した『反モスクワ・ルーシ』という古い考えを、計画の基礎に据えました。かつてのポーランド・リトアニア共和国では、ウクライナ文化や、ましてやコサックの自治を必要としたことなどありませんでした。オーストラリア=ハンガリー帝国では、歴史的ロシアの土地は容赦なく搾取され、最貧の地域となりました。ナチスウクライナ民族主義者組織(OUN)とウクライナ蜂起軍(UPA)の協力者や出身者の助けを受けていましたが、にもかかわらずナチスにとってほんとうに必要だったのはウクライナではなく、アーリア人支配のための生活の場と奴隷だったのです。

同様に、あの2014年2月にも、ウクライナ国民の利益を考慮することはありませんでした。深刻な社会経済問題や、数々の失敗、当時の政府の一貫しない行動により生じた人々の不満は、正当なものでした。しかしこうした不満がただ利用されるだけだったことは、実に皮肉です。西側諸国はウクライナの内政に直接干渉し、クーデターを支持しました。その突入部隊となったのが、過激派国家主義グループでした。多くの点において彼らのスローガン、イデオロギーは攻撃的であからさまな嫌ロシア主義なものでしたが、まさにこうしたものによって、ウクライナの国家政策は決定されていったのです。

私たちを一つにし、今日に至るまで近づけているものはすべて、打撃を受けました。まず、ロシア語です。思い出してほしいのは、『マイダン』新政権が最初に行おうとしたのは、国の言語政策に関する法律の撤廃だったことです。その次に彼らが着手したのは『権力浄化に関する法律』でした。これは教育に関する法律で、教育課程からロシア語を実質的に排除するものでした。

そしてついに、今年5月、ウクライナ現大統領は『先住民に関する』法案をラーダに提出ししたのです。先住民として認められるのは、ウクライナ国外に自身の国家組織を持たない少数民族だけです。法案は可決されました。新たな不和の種は播かれたのです。しかもこうしたことが(すでに述べたように)領土的にも、民族や言語の構成でも、国家形成の歴史野天でも、複雑きわまりない国で起こっているのです。

単一の大きな国や三位一体の国民について語るのであれば、人々が自分をロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の誰と見なそうが違いはないだろう、という議論もあるでしょう。この考えにはまったく賛成です。そもそも民族的な属性の決定は、とくに混血の家族にあっては、自由に選択することがそれぞれの人間の権利なのですから。

しかし今日のウクライナの状況はまったく異なります。なぜなら、ここではアイデンティティーの強制的変更が問題となっているからです。わけても最も卑劣なのは、ウクライナ国内のロシア人が自身のルーツや先祖世代を否定させられるだけでなく、ロシアが自分たちの敵であると強制的に信じさせられている点です。強制的同化や、ロシアに対して攻撃的な姿勢の民族的に純血なウクライナ国家を形成することは、結果的に、ロシア人に対する大量虐殺兵器の使用にも匹敵すると言っても過言ではありません。ロシア人とウクライナ人とをこのように苛酷な形で人為的に分断した結果、ロシア人は全体で数十万、数百万と減少する可能性もあるのです。

私たちの精神的な一体性も、また打撃を受けました。リトアニア大公国の時代さながら、あらたな教会勢力範囲の策定が行われたのです。世俗権威は政治目的を隠そうともせずに教会世界に介入し、教会を分断、接収するとともに、司祭・僧侶に対する制裁を行いました。モスクワ総主教と精神的一体性を保つウクライナ正教会が広汎な自治を有することさえも、決して認めることはできないようです。何世紀にもわたってロシア人とウクライナ人の近親関係を表してきたこの有形のシンボルを、彼らは何としてでも破壊しなければ気が済まなかったのです。

ナチズムを非難する国連総会決議についてウクライナ代表が何度となく反対票を投じているのも、当然のことだと思います。当局の警護の下で、生存するSS部隊出身戦争犯罪者を讃えるパレードや灯火を掲げた行進が行われています。仲間全員を裏切ったマゼッパ、ポーランドの庇護の見返りにウクライナの土地を引き渡したペトリューラ、ナチスと協力したバンデラは、今や国家の英雄に位置付けられています。以前は常にウクライナの誇りとされていきた本物の愛国者勝利者の名を若者世代の記憶から消し去るためなら、彼らはどんなことでもするのです。

赤軍パルチザン部隊で戦ったウクライナ人にとって、大祖国戦争は文字通り祖国をかけた戦争でした。なぜなら、彼らは自分の家を、自分たちの大きな共通の祖国を守ったからです。ソ連英雄に叙された人の数は、2,000人以上にものぼります。その中には、伝説的パイロットのイワン・ニキタヴィッチ・コジェドゥブ、オデッサとセバストーポリを守った恐れを知らないスナイパー、スベトラーナ・ミハイロヴナ・パヴリチェンコ、勇敢なパルチザン司令官シドル・アルチョミエヴィッチ・コフパクもいます。この不屈の世代は、私たちの未来のために、また私たちのために戦い、命を差し出したのです。彼らの偉業を忘れることは、自分自身の祖父を、母を、そして父を裏切ることになります。

『反ロシア』の計画に対しては、数百万というウクライナの住民が拒絶を示しました。クリミアとセバストーポリの住民は、歴史的な選択を行いました。自らの立場を平和的に守ろうとした南東部の人々は、子供を含む全員が分離主義者、テロリストとして分類され、民族粛清や武力による脅迫を受けることになりました。ドネツクとルガンスクの住民は武器をとって自分の家、言語、命を守ろうとしました。ウクライナ諸都市での暴動や2014年5月2日オデッサで起こったおそろしい悲劇の後、ドネツク、ルガンスクの住民にほかにどんな選択があったというのでしょうか。あの日オデッサでは、ウクライナのネオナチが生きたまま人に火を付け、ハティニ虐殺(訳注:1943年、ベラルーシのハティニ村でナチスドイツが起こした虐殺事件)を繰り返したのです。バンデラ信者たちは、クリミア、セバストーポリ、ドネツク、ルガンスクでも同様の制裁を行う準備をしていました。彼らは今なおこの計画をあきらめずに時が来るのを待っています。しかしその時が来ることは決して来ることはありません。

クーデターとこれに続くウクライナ当局の行動は、当然ながら抗争と内戦と引き起こしました。国連人権高等弁務官によれば、ドンバスでの抗争の犠牲となった人の数は13,000人にも及ぶそうです。その中には、老人や子供も含まれます。おそろしい、取り返しのつかない喪失です。

兄弟間の殺し合いを止めるため、ロシアはあらゆることをしました。ドンバスでの紛争の平和的解決を目的に、ミンスク合意が締結されました。これに代わる代替案はないと、私は確信しています。いずれにせよ、ミンスク合意『措置パッケージ』についても、またノルマンジー・フォーマット』諸国首脳による声明についても、署名を撤回しようという国はありません。また、2017年2月17日付け国連安保理決議の見直しを求める国もありません。

公式交渉において、特に西側パートナーによる『牽制』を受けてからは、ウクライナ代表はミンスク合意の『完全遵守』を定期的に口にしていますが、実際に彼らを貫くのはミンスク合意を『受け入れられない』という姿勢です。ドンバスの特別地位やそこに住む人々への保証について、真剣に話し合うつもりなど彼らにはありません。もっぱら『外国による侵略』の犠牲者のふりを利用して、嫌ロシアの普及に努めています。そしてドンバスでは流血の惨事を挑発するのです。要するに、何としてでも海外の庇護者、主人の注目を自分に向けたいのです。
ウクライナ政府はドンバスを必要としていないだろうというわたしの確信は、ますます強くなっています。その理由は、第一に、ドンバス住民は、力や封鎖、脅迫によって命令を強要されても、決してそれを受け入れようとしないからです。第二に、ロシア、ドイツ、フランスを調停役にドネツクおよびルガンスク両人民共和国との直接合意によって結ばれたミンスク1とミンスク2は、ウクライナ領土の一体性を平和的に回復するチャンスとなりましたが、これは『反ロシア』プロジェクトのロジックとは相反していたからです。本来『反ロシア』プロジェクトが成立するのは、西側諸大国の庇護と管理の下で内外の敵のイメージが絶えず醸成されていればこそ可能なのです。

では実際にはどんなことが起こっているのでしょうか。第一に、ウクライナの社会では恐怖を感じさせる空気が流れ、攻撃的なレトリックやネオナチが横行して、軍国化が進んでいます。また現状は、海外への完全な依存という単純なレベルではなく、もはや外国に管理されていると言えるほどです。例えば、ウクライナ政府諸機関や諜報機関、軍隊を監督しているのは外国の顧問ですし、ウクライナの領土の軍事利用やNATOインフラの配備も行われています。前述の『先住民に関する』言語道断な法律の採択が、ウクライナ内でのNATO軍による大規模演習の影で行われたのも、偶然ではないでしょう。

同様に、影ではこっそりとウクライナ経済の残余部分までもが吸い取られ、天然資源が搾取されています。農地の大売り出しもそう遠いことではないでしょう。誰がこれを買い占めることになるかは、もはや明白です。たしかにウクライナがと時として資金供与や借款を受けることがありますが、決してウクライナの条件によるのでもウクライナの利益のためにでもなく、西側企業の意向や条件に基づいて行われているのです。ところで、いったい誰がこの返済をするのでしょうか。どうやら、今日の世代のウクライナ人だけでなく、子や孫、そしておそらく曾孫の世代まで支払い続けていくことが想定されているようです。

西側の『反ロシア』プロジェクト作成者たちは、ウクライナの政治システムが大統領、議員、大臣をすげ替えながらもロシアに対する分離の意思と敵意とは変わらず残るように操作しています。現職大統領の選挙戦でのメイン・スローガンは、平和の実現でした。彼はこれで政権を握ったのです。しかし、公約は結局は嘘でした。なにも変わっていません。ウクライナとドンバスをめぐる情勢は、ある意味ではむしろ悪化さえしています。

『反ロシア』プロジェクトによれば、主権国家ウクライナにもウクライナの真の独立を主張する政治勢力にも居場所がありません。ウクライナ社会における和解や対話、現在生じている袋小路からの脱出について語る者は、『親ロシア』エージェントのレッテルを貼られてしまいます。

繰り返しますが、ウクライナに住む多くの人々にとって、『反ロシア』プロジェクトはまったく受け入れ難いものです。こうした人々は、何百万人にも上ります。彼らには顔を上げて堂々と生きることが許されません。自らの見解を守るための法的な機会も、実質的に奪われています。脅迫されて、地下に追いやられています。信念や語った言葉、自らの立場を正々堂々と表現したことによって、ただ迫害を受けるだけでなく、殺害されることすらあるのです。一方彼らに手を掛けた殺人犯は、罰を受けることがないのが普通です。

今や『正しい』ウクライナ愛国者と呼ばれるのは、ロシアを憎む者だけです。そしてこうした考えだけに基づいてウクライナ国家を構築していこうと提唱されていることは、私たちも承知の通りです。歴史が幾度となく証明しているように、憎悪と怒りとを基礎とする主権はあまりに不安定であると同時に、さまざまな深刻なリスクや重大な結果を伴うものなのです。

『反ロシア』プロジェクトに関するあらゆる奸智術数は、私たちにはわかっています。私たちの歴史的領土やそこに住む近しい人々が、反ロシアのために利用されることは決して許しません。また、こうした試みを行う人々には、結局は自分の国を滅ぼすことになるのだと、伝えたいと思います。

ウクライナ政権は、西側の経験を引き合いに出すことを好み、これをロールモデルと見なしています。ところで、互いに隣接するオーストリアとドイツ、米国とカナダが実際にどう暮らしいるか、目を向けてみて下さい。民族的構成や文化で近似し、ほぼ同一言語の国でありながら、それぞれが主権国家として独自の利益と独自の外交政策を有しています。その国境は、きわめて便宜的で透明なものです。それぞれの国民は、国境の向こう側でも自国にいるかのように感じ、家庭を成し、学び、労働し、ビジネスを行っています。ちなみに、現在ロシアで暮らす数百万に及ぶウクライナ出身者も同様です。私たちにとって、彼らはロシア人同様に近しい人々なのです。

ロシアはウクライナと対話を行うことにオープンであり、きわめて複雑な問題についても話し合う用意があります。私たちのパートナーであるウクライナはどこかよその国の利益に奉仕するのではなく自国の利益を擁護し、決して他国がロシアと戦う上での武器などではないということを、皆さんが理解することが重要です。

ウクライナの言語と伝統に私たちは敬意を以て接しています。また、自国が自由で安全で繁栄した国家となることを目指すウクライナ人の努力にも、心からの敬意を表しています。

ウクライナの真の主権は、ロシアとのパートナーシップにおいてこそ実現可能であると、私は確信しています。ロシアとウクライナとのの精神的、人間的、文化的つながりは数百年間にわたって築き上げられたもので、ひとつの源泉から生まれ、共通の試練や成果、勝利によって強化されてきました。親族としての私たちの関係は、世代から世代へと受け継がれており、現代のロシアとウクライナに住む人々の心に、そして記憶に残っています。また、数百万もの家庭をひとつにする血のつながりの中にもあります。これまでも、そしてこれからも、共にいることによって私たちは何倍も強くなり、何倍もの成功をもたらすことができるでしょう。なぜなら、私たちはひとつの民族だからです。

この言葉は、現在、一部の人々からは敵意を以て受け止められています。また、さまざまな形で解釈される可能性もあります。一方で私の言うことに耳を傾ける人々もたくさんいます。ひとつ言っておきましょう、ロシアが『反ウクライナ』になることは、これまでにも、そしてこれからも決してありません。一方ウクライナがどうであるべきかは、ウクライナ国民が決めていくことです。

Russian Foreign Ministry - МИД России
Генконсульство России в Саппоро 在札幌ロシア連邦総領事館
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Отделение Генконсульства России в Саппоро в г. Хакодате 在札幌ロシア連邦総領事館在函館事務所
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